『ゾディアック』:20世紀の叙事詩、真実はそこにあるのか
デビッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』、レビュータイトルは「20世紀の叙事詩、真実はそこにあるのか」。
『セブン』で功を成し、『ゲーム』『ファイト・クラブ』『パニック・ルーム』で、狙いは面白いが出来はいまひとつの作品を連打し、期待を裏切ってきたデビッド・フィンチャー監督の最新作である。『ダーティ・ハリー』のスコルピオの下敷きとなり、アメリカ犯罪史上マスコミを利用して世間を恐怖の坩堝(るつぼ)に陥れた連続殺人鬼「ゾディアック」を題材にして、20世紀後半のアメリカの危うさを「叙事詩」として描こうとした意欲作と感じられた。
これまでの映画の「叙事詩」の例では、『アラビアのロレンス』に代表されるように、歴史の表舞台に英雄譚(光と陰の部分は織り込みつつも)を描くのが常套であったが、本作品では、著名な連続殺人に取り憑かれた人々を通して、新たな「叙事詩」を生み出したと言えよう。
これを「叙事詩」(=歴史上の物語)の映画と印象を強めるのが、ブライアン・コックス扮するTV悩み相談者が事件に巻き込まれて、ゾディアックと名乗る男からの電話を受けるエピソードまでのエスカレーション描写である。
映画のオープンニングまでの印象では、ゾティアック連続殺人に絡むジェイク・ギレンホール(新聞社付きイラストレーター)、マーク・ラファロ(担当刑事)、ロバート・ダウニー・Jr(新聞記者)を中心に描かれるのかと思っていたが、そうではなく、極めて客観的に事実を淡々とスピーディに描いていき、そのことにより、観客を当時のサン・フランシスコ住人と同じような不安な気持ちにさせていく。この事実描写が圧巻である。
後半は、ゾティアック連続殺人に取り憑かれたジェイク・ギレンホール、マーク・ラファロ、ロバート・ダウニー・Jrが、事件により人生の一部または全てを壊せされていく過程が丹念に描かれる。
この脚本の転調は見事である。
観客を、事件に怯える一市民から、真実を追い続ける側への感情移入がしやすいように組み立てられている。
特に終盤、ジェイク・ギレンホールが真実へと到達するまでの妄執ともいえる行動は感情移入しやすいのではないだろうか。
そして、真実にたどり着いたジェイク・ギレンホールが、既に事件から距離を置かざるを得なくなったマーク・ラファロと、夜明け前のダイナーで語るシーンが素晴らしい。
犯人を示唆されたマーク・ラファロの「しかし、立証は難しい( Can't proove)」
ジェイク・ギレンホール「でも、真実なのです(It's true)」
映画は、映像により真実はそこにあることを示しながらも、立証できなかった旨を字幕で示して終わる。
英雄のいない20世紀アメリカの叙事詩は重く暗いものがあった。
デビッド・フィンチャー監督の出世作『エイリアン3』の宗教観や『セブン』の後味の悪さにどこか通じるとこがあるはずである。
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