『セールスマン』:登場人物たちが監督の掌中で踊らされている・・・ @DVD・レンタル

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昨年の米国アカデミー賞外国語映画賞受賞の『セールスマン』、DVDで鑑賞しました。
監督はアスガー・ファルハディ
2009年の『彼女が消えた浜辺』以降、2011年『別離』、2013年『ある過去の行方』と観てきました。
過去作品と同様、本作でも脚本を書いています。
さて、映画。

中学校で国語を教える教師エマッド(シャハブ・ホセイニ)と妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)のエテサミ夫妻は、ふたりとも小劇団の俳優でもある。
劇団では、米国作家アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の上演間近。
そんな中、ふたりが暮らすアパートが近所の土木工事によって崩壊の危機に直面してしまう。
新しい住居を劇団の古株に紹介して転居したが、前の住人の荷物も残ったまま。
置かれたままの荷物を玄関先に放り出し暮らし始めたある夜、芝居のリハーサルを終えてひとり帰ってきたラナが何者かに襲われて負傷してしまう。
こともあろうに、彼女は玄関で呼び鈴を鳴らしたのを夫だと思って開錠し、シャワーを浴びていた折だった。
犯人は乗ってきたトラックを置いたまま立ち去った。
近所の住人の話をきくと、前の住人は「いかがわしい職業」をしていた女性だという・・・

といったところから始まる物語で、その後、ラナは世間体を気にして警察に届けることは止すものの、エマッドは怒りを抑えることが出来ずに犯人を捜し出そうとする、と展開する。

アスガー・ファルハディ監督が撮る物語は、いつも心地いいものではなく、ひとつの事件が関係者に波紋を広げていって、どうしていいかわからない感情のしこりを残す物語ばかりで、この映画も同じ。

感情にしこりが残り、観終わった後に、どう受け止めていいのかわからない映画は、どちらかといえば好みなのだけれど、どうにもアスガー・ファルハディ監督作品は肌に合わない。
というのも、物語の展開がどうにも奇をてらっているというか、作為的というか、物語の枠組みが先にあって、その中で登場人物たちが躍らせれている感が強い。
この映画にしても、ラナが玄関を開けてシャワーを浴び続けている理由も乏しく、見つかった犯人が心臓病を抱えてい、その後・・・というあたりに作為が鼻についてしまう。

観ていて思い出したのはドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『プリズナーズ』。
あちらも被害者の父親が暴走して、とんでもない行動に走るのだが、感情が先立っているので、暴走行為の結果が無茶であっても、納得できた(ま、その上、真犯人がいるというミステリーとしても定石的結末もあったのだが)。

今回の作品では、リハーサルから本番までの舞台劇と並行しながら描くという新味もあり、それなりに興味深い観られたのだが、『セールスマンの死』との関連性・必要性がいまひとつわかりませんでした(西洋文化の代表として持ち出しただけではないとおもうのだけど)。

ということで、今回もやはりフラストレーションが溜まったまま。
ファルハディ作品は、やはり肌が合わないのでしょうね。

評価は★★★(3つ)としておきます。

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2018年映画鑑賞記録

新作:2018年度作品:20本
 外国映画16本(うちDVDなど 1本)
 日本映画 4本(うちDVDなど 0本)

旧作:2018年以前の作品:10本
 外国映画 8本(うち劇場鑑賞 1本)←カウントアップ
 日本映画 2本(うち劇場鑑賞 0本)
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この記事へのコメント

ぷ~太郎
2018年03月28日 15:05
ま、確かに肌があわない監督というものはいるもので。
やはり、作為的すぎるのはどうしても否めない。同性として、警察に届け出るのを躊躇するのは理解できるが、犯人に同情するのはなんともな気分。そんな程度の痛みしか心におわなかったのかとかえって非難したくなる。犯人も犯人だが、唯一まともなのは夫だったと最後思った。
りゃんひさ
2018年03月28日 22:16
ぷ~太郎さん、コメントありがとうございました。
観終わった後、いちばん心情が理解できるのは、やはり夫の心情ですね。他のふたりのもわかるようだと、もっといい映画になるのだけれど。

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